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ガールズロックバンドのメンバー。プログラマ。人生の要になるいろいろなポイントで運を引き寄せる人。そして、そのやってきた運を掴む行動力と、それをきちんと結果に結びつける努力を怠らない人。それが奥山さんだ。 ラッキーその1:友達の誘い東洋大学の社会学部を卒業後、日本の製薬会社の子会社へ入社。仕事内容はサーチャーだった。年配の男性の多いのんびりした職場で、仕事はそれなりに楽しかったが、数年すると、 「こんなぬるま湯な環境でよいのだろうか?」 と疑問を感じ始める。 20代も半ばを過ぎた頃、友達から 「サンフランシスコにおいでよ」 と誘われる。以前、女性4人のロックバンドでプレーしていた仲間の1人が、サンフランシスコに移り住んでいたのだ。 「サンフランシスコで一緒にまたバンドをやろう」 というアバンギャルドな誘いだった。 「とりあえずアメリカで住めば、英語はペラペラになるんじゃないかな」 と軽い気持ちでその気になった奥山さん。友達から 「学校に通えば学生ビザがでる」 「でも、英語学校だと、卒業した後に就労ビザをもらえないから、カレッジで何か専門性のある勉強をした方がいい」 「コンピュータを勉強すれば、仕事はあるよ」 といった、非常に的を得たアドバイスを受ける。日本の大学での専攻は社会学ではあったが、メディア研究がメインで、中でもインターネットが主要なテーマだったので、もともとインターネットに興味があったこともあり 「だったら、サンフランシスコの近くの大学で、プログラミングを勉強しよう」 と渡米した。2000年のことだ。 「先にきていた子に、就労ビザへの最短距離を教えてもらって助かりました。バンド仲間は4人だったので、全員誘われたんですが、そそのかされてアメリカへ引っ越したのは私だけでした(笑)」 こうして、「サンフランシスコでバンドをしよう!」という誘いに乗ったのが、奥山さんの最初のラッキーだ。 教訓:「誘われたら乗ってみよう」 ラッキーその2:ドットコムバブル崩壊後のどん底景気で就職渡米直前に、バンド仲間が住んでいたシェアハウスに空き部屋が出て、運良くそこへ入居。10人ほどの人たちと同居した。同居人の人種はいろいろ。大家さんも慣れたもので、奥山さんが着くなりマットレスを買いに連れて行ってくれ、すぐに生活は始められた。 バンド仲間の的確なアドバイスにより、日本で働きながら英語の勉強をして、TOEFLのスコアを取得。語学学校に通うことなく、渡米後すぐにコミュニティカレッジに入学。Unixのシステムアドミニストレーターのコースを受講した。カレッジでは、日本人は全部で数十人はいた。奥山さんのように日本で数年働いてから来ている人も多かった。一方で、他の大学へのトランスファー狙いの人も結構いた。 ところが、時は折悪しく2001年。運悪くシリコンバレーはドットコムバブルがはじけ、景気はどん底。多くの会社が大量レイオフをしていた時期に、就職活動をすることになってしまった。 「ある小さな日本の会社のシリコンバレー子会社で事務の仕事をしているが、近いうちに日本に帰るので、後がまを捜している」 と教えてもらう。応募してみたところ、すぐさま採用。 「コミュニティカレッジを卒業して10年近くたちましたが、当時の日本人のクラスメートでアメリカに残っている人はいません。なにぶんにも卒業時期が悪かったのが結構こたえてますね・・・。私はラッキーでした。」 教訓:「ネットワーキングは幸運を呼び込む」 「せっかくコンピュータの勉強をしたのになあ」という思いはあったが、世の景気を考えれば、そんな選り好みをしている場合ではない。まずは会社に潜り込むことが先決、と事務の仕事を始めることにした。 「この会社の事務は、社の電話番みたいなものでわりと時間があるので、やりたいと言えばエンジニアリングの仕事をやらせてもらえるかもよ」 というアドバイスをもらった。そこで、ひと通り事務の仕事を覚えたあと、エンジニアの先輩社員に、 「カレッジではプログラミングの授業も取っていて、じつは自分のやりたいことはエンジニアリングの仕事なんです!」 と売り込みを開始。すると、 「じゃあ、ちょっとやってみる?」 と運良く仕事をもらえた。そして、そのまま、横滑りでプログラマとなった。「わらしべ長者」のようだが、それも、奥山さんが、自分のやりたいことをアピールしたからこそもらえたチャンスではある。 教訓:「自分のやりたいことはきちんとアピールする」 大けがからの復活ところが、この1年後、デスバレーに友達と観光に行って、大事故を起こしてしまう。 「せっかくグリーンカードが当たったのに、ここで日本に帰るなんてもったいない!」 と、日本に戻ることは考えず、医療費についても、病院や保険会社に交渉して、なんとか払える金額まで減額してもらう。 教訓:「少々のことでビビらない&とにかく交渉してみる」 Webサービス開発と新会社設立その後、就職先の会社は、日本の親会社との関係を解消し独立。ウェブサイトや業務アプリの受託開発などを主にして来た。奥山さんの仕事も、プログラマからプロジェクトマネージャ、さらにはCOOとマネジ. メントの仕事が主体になっていったが、この4月からは就職先の社長と一緒に、新しい会社を設立し、家族や友達との絆を深めるクローズドなコミュニケーションサービスRusviを作っている。 もう一度やり直せるなら?「もう一度人生やり直せるならどうしますか?」 という問いに、奥山さんは 「4大からアメリカの大学に留学しますね。」 と即答。アメリカは学歴社会だから、どうせだったらアメリカの良い大学を出ていた方が良いから、、、と説明が続いたが、「アメリカに住む」という以外の選択肢は全く頭の中にないようだ。それを指摘すると 「言われてみるとそうですね・・・でも、日本から飛行機に乗ってサンフランシスコの空港につくと『帰ってきた』とホッとするんですよ。広々として空気がきれいで、人も東京より少ないですし・・・。もともとロックバンドをやるくらいですから、根がパンクなんです。反骨精神というか。そういう人間にとっては、型にはまらなくても良いシリコンバレーはとっても住みやすい場所なんだと思います。これからもずっとここに住んでいたいです」 と語る奥山さん。 シリコンバレーでやっていける人はどんな人?という質問への答えは、 「文系の人でも、やる気さえあればプログラマ転向は可能です。シリコンバレーに来たい、と思う人だったら、誰でも大丈夫ですよ。」 〜てくらぼ編集部よりお知らせ〜
2007年11月より31回に渡って、"シリコンバレー"を このレポートに関するご意見・ご感想は下記までお願いします。
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