化学少年からパソコン少年へ本間清司さんは、ラーメンで有名な福島の喜多方に生まれた。父親は自動車修理会社を経営しているが、元々は英語教師だった。30歳で「脱サラ」し、「車の修理はなくならない」と見込んで起業した、という経歴だった。本間さんはこの父親から 「勉強はするな、好きなことをやれ」 と言われながら育つことになる。 子供の頃は「化学少年」だった。 きっかけは、小学校一年生から取っていた「学研の科学」の付録にルミノール反応のキットがついてきたこと。透明の液体を二つ混ぜると思いがけない新しい反応が生じることに感動した。以降あれこれ自ら実験し始める。「ぼくら三人にせ金づくり」という本に載っていた錬金術も試してみた。近くの老舗の薬局で原料となる硝酸銀を買ったのだが、これが25グラムで6000円以上もして、 「錬金術は儲からない」 と子供心に実感したりした。その後も、同じ薬局に通っては、いろいろな薬品を買いこんで実験を続ける。本間さんの家には、学校の実験薬品棚並の劇薬が並んだ。薬局の店主からは 「7年に1人くらいあなたみたいな化学少年が登場する」 そして1986年、11歳の本間さんはPCを手に入れる。PC-8801 mkIIFRだった。ちょうどファミコンがはやっていた時期でもあり、うれしいプレゼントだった。ベーシックマガジンに載っているプログラムをいろいろと試して、自分でゲームを作る。ここで化学を上回るゲーム業界への強い憧れが生まれた。 「何かを足し合わせると、新しい何かが生まれる、という化学と同じ魅力がプログラミングにもありました」 ゲームミュージックへの興味ゲームの中でもサウンドプログラミングに特に魅かれた。 「普通のPCから色々な楽器の音がする!」 と感動。ゲームセンターのゲームを、音色も含めてPCで再現させたりもした。 中学に入っても、打ち込み音楽も続けたが、さらにシンセサイザを買ってバンドを作る。この頃、楽譜の読み方など音楽を一通り勉強したのがその後の基礎になった。 また、姉妹都市交流の一環としてアメリカに夏休みの交換留学生としてホームステイに行ったのも中学の頃だ。学校からは3人が希望して参加した。 「ホームステイ先の同じ年頃のホストブラザーに、『近所の芝刈りをしてお金を稼ぎ、いつか自分も日本に遊びに行くよ』と言われ、子供なのに自分で稼ぐ、という発想にカルチャーショックを感じました。その後本当に彼はお金を貯めて日本に遊びに来ました」 大学は東京理科大の経営工学科に進学した。都心にあり、電機系企業への就職率が高いということで選んだ。入ってみると理科大は厳しいところで、毎週科学実験レポートの課題があり、本間さんの学科でも10%は毎年留年していた。 しかし、本間さんはきちんと学校の勉強を続けつつも、ディスコ通いを開始。 学校のすぐ近くの神楽坂にTwinStarというディスコがあり、頻繁に通った。さらに、新宿、六本木などにも足を伸ばし毎週必ずどこかのディスコに行っていた。 「行けば必ず誰か友達がいて、早い時間に入れば、安くてしかも食べ放題で遊べるところも多かった。今でいうところのSNSのリアル版ですね。約束してなくても行けば必ず友達がいて飲み会みたいな」 とも言う本間さんだが、やはり興味は音楽にあった。 DJと音楽制作の道へやがて、単に客として通うだけでは飽き足らなくなった本間さんは、どうやって音楽で客の心をつかむのか興味がわき、DJになる。 今でこそフリーのDJがほとんどだが、当時のDJは個々のディスコに雇われ専属になるのが通例。しかし、本間さんは一つのディスコに縛られることなく、色々な現場を見られるということでDJのプロダクションに所属して活動を開始する。 ジャンルは「縦のり」系で、テクノ、ユーロビート、ハウスなどなど。客の動きを見ながら、臨機応変に音楽を切り替えていくことで、場の雰囲気をコントロールすることができるのがDJの面白いところ。 選曲がよくないと客からブーイングを受けたりもした。 そんな辛いこともあったが、DJを続けていくうちに音楽業界にコネができ、音楽制作の仕事も頼まれるようになった。しかし、当時はコンティニュアス・ミックス(ノンストップCD)、リミックスなどの仕事に対して、商業クオリティのものを納品するためには、高級車が買えるぐらいの機材投資をしなければいけなかった。自分を追い込む意味でも借金をして機材とソフトを一通り揃え、技術はレコード会社のスタジオに足繁く通い、エンジニアから学ぶ。 そうした心構えや努力もあり、本間さんが編曲したCDやレコードが毎週1枚リリースされる「売れっ子」に。収入は、平均的なサラリーマンの年収を優に超した。しかし、 「今は瞬間的に注目されているだけで、自分にとって一生続けられる仕事ではない」 とも感じていた。仕事を通じてわかった音楽業界の内側の仕組みにも疑問を持った。先輩DJやレコード会社の知り合いの中には、テレビやラジオの番組を持ったり、プロデュースを手がけることで富を築き、いい車に乗っていい暮らしをしている人たちもいる一方で、業界全体ではごく一部の人しか儲からない仕組みになっていた。 大学卒業後はDJの仕事で出来たコネを使ってレコード会社に入る道もあったが、研究も続けたいということで、本間さんは大学院進学を選ぶ。研究内容は、昔から関心があるゲーム開発にも必要な画像圧縮にした。大学院の入学面接の際には、学部長の教授から 「君、よそでバイトなんかしてないだろうね」 と言われたが、「もちろんしていない」と宣言。所属研究室の教授は音楽活動のことを知っていたが、逆に応援してくれた。 大学院時代は、学部生のコンピュータサイエンスのTA(Teaching Assistant)や学部のネットワーク管理者の仕事も地道にこなしつつ、時間を効率的に使いDJと音楽制作の仕事は続けていた。 大学院では、学会発表の他、輪講といって、学部内で教授と院生を相手に定期的に自分の研究成果の進捗状況をプレゼンする。このプレゼンできちんとパフォーマンス(=研究結果)を出していれば好きなことをしていても文句は言われない、というのは、シリコンバレーでの働き方によく似ていた。 音楽×画像=ゲームそして修士修得後に就職。ソニーなど大手に推薦枠もあったが、職種が自分がやりたい内容ではなかった。 「圧縮技術研究と音楽、両方が生きる会社に行こう」 と考えてみると、やはり自分が進みたいのは小学生の時に夢を抱いたゲーム業界だ。そこを中心に就職活動を行う。 ちょうどその年、セガが「サウンド技術」という職種で募集をかけていた。セガは職種別採用を行っており、たまたまその年は、6年ぶりにサウンド技術の募集をしていたのだ。面接では 「このツールでこれをやるにはどうするか?」 「この課題を解決するためにはどうするか?」 といった専門的なことを多々聞かれたが、すでにサウンドエンジニアリングやプロフェッショナル・オーディオ関連ソフトは熟知していたため、手ごたえのあるやり取りができた。就職が厳しい頃で、その年のセガは、2000人以上が応募して百数十人が入社する難関だったが、中でもアミューズメント・サウンド技術の採用はたった2人。本間さんはその一人に選ばれての入社だった。 本間さんが配属されたのは、AM2という組織だった。セガの社内は、アミューズメント系のAMと、コンシューマ系のCSがある。AMは「研究所」と呼ばれるいくつかのグループに分かれており、それぞれが、世にあるゲームスタジオのような性格をもっていた。そしてそれぞれの研究所の中に、ゲーム開発チームが複数ある。AMの「研究所」の一つであるAM2は、Virtua Fighterなど有名なゲームをリリースし、さらに全社的な技術研究もしていた。 本間さんはAM2のテクニカルリサーチ・セクションのサウンド・チームに配属になった。テクニカルリサーチ・セクションは、複数のゲーム開発チームが共通で使うライブラリを作ったり、ゲームプロデューサーの突拍子もない発想や希望を実現できる技術を開発したりするのが仕事だ。ときとしてゲーム開発プロジェクトが佳境 にさしかかるとヘルプとしてプログラムを手伝う。 社内では開発にSGIマシンを使用していたため、UNIXに明るい人がほとんで、Macに詳しい人間がほとんどいなかった。サウンドのクリエーターは基本的にMacを使用していたが、トラブルが起きると、テクニカルリサーチに相談してくる。そのような状況で、学生時代からプロの制作環境を自宅で整備していた経験もあって、部内では「Macのことは本間に聞け」状態になった。 このレポートに関するご意見・ご感想は下記までお願いします。
|