寺澤大輔さんは30代半ば。現在シリコンバレーのとある通信系技術企業で、シニア・ディレクターとして30人ほどの研究開発者の部下を束ねている。大学院を出て就職した今の会社は、入社当時は3000人だったが今では1万5千人規模に成長、業界でも世界的なトップの地位を確立している。数年で転職を繰り返す人が多いシリコンバレーだが、成長し続けてきた大企業では、5年、10年と同じ企業で働き続ける人も多い。急成長する中で事業領域も常に拡大、同じ会社にいながらにして次々に新しい仕事に挑戦する機会もあるからだ。そんな成長企業で14年間働いてきた寺澤さんのこれまでのキャリアを伺った。 大学まで - とりあえずやってみる日本で生まれ育った寺澤さんだが、7歳の時に父親の留学のため家族で渡米し2年弱をボストンで過ごす。その後は家族と共に日本に帰ったが、高校2年の始めに今度は父親がロサンゼルスに転勤になった。寺澤さんもまた家族と共に渡米、現地の公立高校に転入した。 日本では進学校の武蔵高校に通っていた。同じような状況では父親が海外転勤しても日本に残って大学受験する人が多いようだが、寺澤さんは 「とりあえずアメリカに行ってみて、もしいやだったら1年で帰ってきて日本で受験すればいいし」 と思い、軽い気持ちでロサンゼルスへ。1年半ほどでアメリカの大学受験の時期がやってきた。特にアメリカの大学に強い思い入れがあったわけではなく、日本の大学に行っても良かったが、アメリカの大学のほうが願書を出すのも合格発表があるのも日本より半年早かったので、 「まずはアメリカの大学にトライしてみよう」 と受けたところ、スタンフォード大学に合格した。受かってしまうと、さらに日本の受験をするのも面倒なので、するするとスタンフォードへ。 スタンフォードでは学部を終えるとそのまま電気電子の院に進んだ。博士号を取るコースに在籍していたのだが、途中で担当教官がベンチャーを起業するために辞めてしまう。他の先生を探して博士号への道を進んでもよかったが、とりあえず修士で終えて就職先を探すことにした。一旦大学をやめても、5年間はいつでも博士課程に戻ってこれることになっていたので、 「とりあえず1〜2年働いてみて、それから戻って博士号をとってもいいかな」 と思ったからだ。そこでサンディエゴに本社がある今の会社に入社することにした。これが1995年のこと。 キャリア作り - とりあえずやってみる就職後は、本社で衛星電話関係のチップのシステム設計に従事したが、2年後、日本に駐在することになる。会社は、日本でエンジニアを採用しようとしていたが、どうしてもいい人が採用できないので、代わりに日本語ができる寺澤さんに白羽の矢が立ったのだ。 「とりあえず半年行って欲しい」 と言われ日本に行ったが、日本オフィスにはエンジニアは寺澤さん一人。かなり手薄で、海外のオフィスとの深夜や早朝の電話会議が続く、といったようなこともあったりして、肉体的には非常に大変な日本での仕事だった。そうこうしているうちに、半年のはずが1年を過ぎる。 そのまま日本オフィスに残るという選択肢もあったが、やはり開発の核となるような技術の仕事は本社のあるアメリカにいないとできない。日本にいると、より営業より、顧客よりの仕事になってしまう。まだ学校を出て数年しか経っていなかった寺澤さんは 「もう少し技術に突っ込んだ仕事がしたい」 とサンディエゴの本社に戻ることにした。 戻るとすぐ、シリコンバレーオフィスに転勤の話が持ち上がった。ちょうど1999年のITバブルのただ中のこと。
ということでシリコンバレーに移ってみた。 その後、最初の半年が1年になり、それが2年になり、やがて10年が過ぎることになる。 ということで、寺澤さんのキャリアアップのキーワードは「与えられたチャンスは、その後の可能性が広がりそうなものであれば、とりあえずはなんでも半年やってみる」だ。 このレポートに関するご意見・ご感想は下記までお願いします。
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