仙台での子供時代竜盛博さんは、シリコンバレーの北、ワインの名産地ソノマにほど近いサンタローザのアジレント・テクノロジーズ社で、R&D プロジェクトマネージャとして働いている。アジレントは1999年にヒューレット・パッカード(HP)から分社した会社で、 計測機器や光電子部品などを開発する。 ご両親とも台湾出身で、お父さんが東北大学に留学するために夫婦で日本に来たそうだ。「盛博」という名前は、お父さんが博士号を取った年に生まれたことに由来する。お父さんは卒業後仙台で就職したので、竜さんは生まれも育ちも仙台だ。竜さんが10歳くらいのときに家族が日本に帰化して、今の苗字の「竜」となった。それまでは、難しい「劉」という字だったが、日本の戸籍で使えなかったので。家族の帰化の感慨はその程度で、後はごくごく普通に日本で育つ。 やがてプログラムを仕事とすることになる竜さんだが 「僕はあんまりギークじゃないんです」 と語る。 小学校4年生の時、父親がNECのPC8001を会社から持ってきた。当時はまだPCが高い時代で、本体が16万8000円、フロッピーディスクドライブが30数万円もした。週末にお父さん自らが勉強するためだったようだが、竜さんとお兄さんはせっせとゲームをし始める。 「二人ともコンピュータに興味があるようだ」 ということで、翌年にはパソコンを買ってもらえた。しかし、マイコン雑誌の「I/O」や「マイコン BASIC マガジン」に書いてあるプログラムを打ち込んで使うまではいったものの、のめりこんで「自分でゼロからプログラムしてゲームを作り出す」というところには至らず。中学、高校とパソコンは触り続けていたが、結局「ゲームで遊ぶ」程度にとどまった。このあたりが、竜さんの「ギークじゃない」発言の根拠だ。 (ちなみに、「ギーク」は微妙な褒め言葉。アメリカでも、日本の「オタク」同様の言葉として使われることも多いのだが、シリコンバレーでは、特にITエンジニアを指して「3度のメシより技術が好きで、秀でた技術力を持つ人」というニュアンスとなる。) 大学はそのまま地元の東北大学の情報工学科へ。しかしここでもプログラミングの授業はあまりなく、理論的に概念を押さえることが基本だった。一応 Fortran、Pascal、Lispという不思議なコンビネーションは授業でやったがC言語には全く触れず。しかも研究室はどちらかというとハード寄りでソフトそのものを専門でやる雰囲気は無く、プログラムは独学で勉強した。 そしてそのまま東北大の大学院へ。ここで一番印象に残っているのは研究発表の練習。プレゼンに厳しい先生で、学会発表の前など朝から晩まで練習させられた。先生から厳しい突っ込みが続いたこの練習は、今でも胃が痛くなる思い出だそうだ。 外資系企業就職から米国駐在員へ修士終了後は就職することにしたが、ここで竜さんが就職先の条件と考えたのが 1.アメリカの会社 だった。1については、理系としては英語ができたので、これを使わないのはもったいない、という気持ちがあった。 英語ができたのは親戚との交流による。竜さんは「学校でいじめられないように」という親の配慮で、中国語を教えられずに育った。一方両親の親戚はアメリカ、ドイツ、カナダなど、世界あちこちに散らばって住んでおり、共通言語は中国語もしくは英語。どちらもできなかった竜さんは、数年に一回いとこたちと会っても会話に 加われず寂しい思いをする。 (竜さんが6歳の時に母親が中国語を教えようとしたが、本人が拒否したそう。「なので、中国語ができないのは親のせいだけでは無いのですが」とのこと。) その後中学に入って、 「英語ができるようになれば、いとこたちと話ができる」 と思い、かなり一生懸命勉強するように。 2の「電気工学+情報工学」については、当時の東北大では、電気、通信、電子、情報系が全て同じカリキュラムで、卒論だけで専攻が決まる状態だった。ということで、 「せっかく勉強したから、両方使える方がいいかな」 と。そして、当時日本できちんと研究開発をしていた外資のハイテク企業はIBM、テキサス・インスツルメンツ、HPくらいしか知らなかった。その中から両方できそうな計測業界を選んでHPへ。 HPでは、TOEICの点数が結構高かったこともあり、最初からアメリカの部署と共同で開発するチームに配属になった。場所は神戸。携帯電話のテスト用の装置を作る部署だったが、コアのソフトはアメリカで作り、PDC、PHSなどの日本独自フォーマットのアプリケーションは日本で作る、という体制になっていた。 ここで2年間働いたところでチャンスが訪れる。新しいプロジェクト立ち上げにあたり、 「今までより密な本社とのコミュニケーションが必要。そのためには一人アメリカに常駐した方がよい」 ということに。 そこで、入社3年目になったばかりの竜さんが「日米コミュニケーション窓口+開発エンジニア」として、駐在員としてアメリカで働くことになった。当時は会社の調子がよかったこともあり、竜さんのように入社2-3年目の社員が海外転勤することは稀ではなく、竜さんの周りだけでも2人同じような年代の駐在員がいた。 駐在先は今も働くサンタローザだった。最初は1年の予定だったが、これが延長に。渡米して1年半後には、以前から付き合っていた日本のガールフレンドと結婚して呼び寄せる。 駐在の延長は最初から狙っており、そのために竜さんがしたことは二つ。 1.「こいつを代えたら皆困るんじゃないか」と思わせるぐらいの仕事の成果を出す。(言葉の問題もあってうまくいかずに日本に帰る人もいたので、そうならないよう気をつけた。) 2.アメリカのオフィス内での知り合いを増やす。同じチームの人と仲良くなるのは当然のこととして、ちょっとでも関係がありそうなミーティングは全部出席して知り合いを増やした。「コミュニケーション窓口」という立場を利用して、普通はマネージャレベルの人しか出ないミーティングでも、日本にいる上司の代わりに出られたのもラッキーだった。(これは、松田さんの回で説明した「組織の中での地位を高めやすい蝶ネクタイポジション」でもある。) 努力の甲斐あって、駐在はトータル3年半まで延長される。 日本に帰ることになったのは2001年の秋のこと。9/11の10日後の飛行機で帰国し、神戸の元いた部署に戻った。上司も変わらず。日本を出る前には4人だったチームが、20人近くに育っており、さらに拡大するため新たなマネージャが必要、帰ってきたら近いうちにマネージャになれる、と言われたのが帰国の動機だった。 一生プログラマをするほどの「ギーク的思い入れ」がない竜さんとしては 「いずれはプロジェクトマネジメントがやりたい」 と思っていたのだ。「蝶ネクタイポジション」で、調整役の仕事が気に入っていたこともある。 さて、一般論として、アメリカでしばらく暮らした人は、日本に帰って「逆カルチャーショック」を経験することが多い。
「あなたのやり方は間違っている」 といった直截な表現で相手を熱く怒らせてしまったことも。同じく駐在帰りの人に注意されなるべく気をつけるようにはなったが苦労した。 なお、「日本人は熱くなる」は意外に思う人もいるかもしれない。 しかし、声高そうなアメリカ人ではあるが、腹を立てたときも「声を荒げず、理論的に淡々と相手を説得する」という傾向が強い。もちろん 癇癪持ちの人もいないではないが、仕事の場でそれを爆発させることはかなり稀。相手に告げる内容は非常に厳しいものであっても、言い方はあくまで理論的に、 というのが基本である。(怒って声を荒げると、相手が、おびえて恐縮する代わりに怒ってしまい、さらに事態が悪化する、ということもある。声のトーンや態度 より、内容で相手をビビらせないといけない。) このレポートに関するご意見・ご感想は下記までお願いします。
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